2度美味しい

 以前から晩酌後は連続ドラマを見ないことにしています。理由は酒を飲むと、短期記憶から長期記憶への転送が阻害されるからです。単純に言えば、覚えていないのです。でも考えたら、2回楽しめるのです。ということで、昨晩見た韓国ドラマの「社内お見合い」の10話以降をもう一度楽しみます。

友達

 Facebookに関して、友達申請に関して一定の基準を設ける必要性を感じました。つまり、私が全く知らない人からの友達申請に関して一定の基準が必要だと思いました。その基準は以下の通りです。

https://www.jun24kawa.com/entry/2023/07/24/193004

 本日、友達にすることが権利のように主張する方がいました。正直、怖いと思いました。私は公人ではありません。人様から強いられる筋合いはありません。なおさら基準を設ける必要性を感じました。

 私の情報発信はオープンです。私への連絡もオープンです。Facebookで友達になることの意味は皆無です。それを友達になることに拘り、それを私を権利として主張する人の気持ちが分かりません。怖いな。

ライブ

 昨日は久しぶりの対面式の講演会をしました。最近はZoomでの講演が多くなっていますが、Zoomに比べて対面の方が格段に意味があるように思います。特に、私の本をよく読んでいる方(つまり、集団をリードする方)にとっては。

 私が語ることはもう知っているのです。ただ本では伝えられないことがあります。それは私が本に書いていることを、私がどれだけの熱意と確信を持っているかと言うことです。それは対面式の時に伝わる、全身から発する様々な動き、微妙な表情、空気感によって伝わります。

 複数の方から「本では分からないことが分かりました」という言葉をいただきました。

呼び方

 私の呼ばれ方は長らく「じゅんちゃん」です。高校教師時代、生徒はもちろん、教職員、事務職員、給食職員からは、そう呼ばれていました。例外は教頭先生と校長先生で、「にしかわさん」でした。職員会議(卒業判定会議も含まれます)のようなフォーマルな雰囲気でも、教頭先生以外(校長は定時制の会議に出ません)は「じゅんちゃん」でした。ちなみに、私より若い先生も3人いましたが、「ちゃん」ではなく「先生」と呼ばれていました。

 これは大学に異動しても同じです。まあ、面と向かっては「西川先生」と呼んでいますが、ゼミ生同士の間では「じゅんちゃん」であることは分かっていました。(ちなみに、私の大学院の指導教官は小林学先生でしたが、ゼミ生同士では「まなぶちゃん」でした)

 それが5年ほど前に「じゅん」と呼んでいることを知りました。ゼミ生達が現在のゼミの『学び合い』をまとめた本(www.amazon.co.jp/dp/418505520X )を書くために卒業生・修了生にインタビューしている原稿を見たのです。そこには「じゅんは○○と言った」というような記述が一杯あるのです。「おまえら、じゅん、って言っているの?」と聞くと、曖昧にニヤニヤしていました。どうやらゼミ管理者としての私に対する呼称のようです。つまり、「部長」、「課長」のような呼称です。

 SNSでのゼミ生たちの呼称は「師」が広がっています。これってSNSで見かけたことはありません。何でだろう、と思います。まあ、「尊師」となってはまずいかなと思います。でも、ゼミ生が私をどう呼ぶかは勝手です。私はぶれずに対しますから。

追伸 面白がって「尊師」という呼称は使うなよ。お前らのやりそうなことだから。それはゼミ内部だと笑い話だけど、外から見たらどんびきだぞ。

むかむか

 ここから書くことに関しては、書かない方が良いだろうな~っと、理性的な私が思います。しかし、義憤を感じる私を止めることは出来ません。退職間近の私を止めることは出来ません。

 以下、かなり長文です。

 短く言えば、幼稚園・保育園の養成に関わる人は、知っているの?知ろうとしているの?という大学人としては地雷原を全速力で走ることです。

 私は『学び合い』やアクティブ・ラーニングに関する本を数多く書きました。しかし、それらと無関係の本も書いています。教師の働き方改革に関して部活顧問の断り方(https://amzn.to/3MQ1la1)、教師がブラック残業から賢く身を守る方法(https://amzn.to/43nGyBW)、2030年 教師の仕事はこう変わる!(https://amzn.to/3CcWta3)、教師のためのお金の増やし方がわかる本(https://amzn.to/3NfCNsE)の4冊を書きました。元々の専門は理科教育学であり、日本理科教育学会から学会賞をいただき、その他、理科教育学の論文や賞をいただいた私が何故、書いたか?

 理由は、私は面白い授業・分かりやすい授業ではなく、子ども達の一生涯の幸せを実現する日々の教科指導を目指しているからです。同様に、教師の一生涯の幸せを願っているからです。特に、私の教え子であるゼミ生の将来を願っている。だから、色々なことを調べ、考え、人と語り合いました。その結果、こうすればブラックと言われている義務教育・高校教師が一生涯幸せになるための道が見えてきました。

 何故、そうしているか?

 それは私の目の前にいる学生さんに、「教師はいいよ」と本心で言いたいからです。それを失ったら教員養成系大学の教員である私は誇りを失います。振り返ってそれが多くの教師を救うことだと信じています。

 さて、この長文を書いたのは何故か?

 テレビ番組を見ながら、幼稚園・保育園教師だった家内が、私立の幼稚園・保育園の酷い状態を語り始めたからです。この話は結婚以来、何度も聞きました。そして、ムカムカしています。今の義務教育や高校のブラック勤務の比ではありません。ハッキリ言って、子どもを育てたいという純真な若者を使い捨てにしているのです。ある意味、ジャニーズ事務所のだれかさんに似ている。そんなことを知らずに幼稚園・保育園の先生になる人がいるから成り立っているのです。

 私が言いたいのは、幼稚園・保育園の先生を養成している人たちは、その実態を知っているのだろうか?と思います。そのために、何をしているのだろうか?もし、それを知らずに、学生さんを幼稚園・保育園の教師にしていたら、「恥を知れ」と思います。

 すみません。

 家内の語りを聞いてムカムカして、筆が進みました。

資産と負債

 日本人は不動産を資産だと思い込んでいます。ですが、私の考え方を知ったゼミ生からは遺産相続するか?という質問をされます。

 私の質問は2つです。

 第一の質問は、その土地に住むか?

 イエスの場合は、車移動出来なくなったとき、日常製品の購入をするスーパー、内科医や歯科医等が徒歩で10分圏内か?を聞きます。

 両方ともイエスの場合は「遺産」です。

 しかし大抵の場合は、それ以外です。その場合は遺産ではなく負債であることを言います。そのような土地は売れません。そして、延々と固定資産税を払わなくてはならない。

 私は、土地を買うとき、私や家内の死んだ後に息子に迷惑をかけたくない。だから、直ぐ売れる土地を探しました。もの凄く、贅沢ですが。

 土地を探しました。時間をかけて。完璧です。久喜市中心部で利根川の氾濫でも大丈夫なごくごくまれな地域です。数百メーター単位の狭い土地です。だから、久喜市の葉ザートマップでも、最高度に拡大しないと分かりません。

 新築の我が家の前を歩く人から、「よく買えましたね?」と異口同音で言われます。この地区の人は、絶対に売らないのです。だから、売れば、速攻で売れます。

 息子の人生は様々ですが、負債にはなりません。私が死んだ頃には、彼はこの感覚を理解するのでしょう。私は彼が理解する前に、考えるのが勤めです。

損得

 私の住んでいる上越の有名人と言えば、上杉謙信です。上杉謙信は「義」を重んじ、私利私欲のために戦いをしない武将でした。だから義の武将と言われます。でも、そうでしょうか?私はそう思いません。

 上杉謙信家督を継いだ頃の越後国は乱れており、越後内での戦いは絶えません。多くの戦国大名は、「私利私欲」に応える恩賞で味方にしようと思いました。ところが、人は我欲の塊です。あいつが○○をもらったならば、俺は○○以上をもらうべきだと考えるのは当然です。そうなると際限がありません。だから、上杉謙信は私利私欲の上位の義を掲げ、私利私欲の暴走を止めようとしたのだと思います。人にそれを求めるためには、己の言動を義において一貫する必要があります。それがあの生き方なのです。つまり、自己の私利私欲のために義を掲げたと思います。それによって、自らの私利私欲の暴走を押さえたんです。

 これは悪いことではないです。無私の行動は続きません。しかし、私利私欲だけではダメです。上位の公共性の高い目標を掲げ、それと私利私欲とを結びつけるとき、行動が継続します。

 だから、『学び合い』では道徳の徳ではなく、損得の得を語ります。それも1ヶ月単位、1年単位、数年単位、そして、数十年単位の利害と日々の授業での言動を結びつける説明をします。そうすれば集団をリードする2割弱の子どもが理解します。

 では、教師は何のために『学び合い』を実践しているのでしょうか?そのあたりを理解していない人は少なくないと思います。上記で述べたように、己の幸せのためです。それを理解するには、己の幸せとは何かを理解しなければなりません。それが無いと、点数の上下でぶれてしまうのです。そして、その幸せと『学び合い』とどのように関わるかを理解すべきです。

 日本中には『学び合い』の会を主催されておられる方のような方もおられます。これが継続できる人は、己の幸せと自らの行動を結びつけることが出来る方です。

 ちなみに私も己の幸せのためです。ゼミを『学び合い』で運営することによって、苦労なく、高い成果を上げ続けられます。それによって職場では、極めて有利な立場にいつづけることが出来ます。『学び合い』を20年以上続けた結果、経済的にも有利になっています。この有利さは退職後も続くでしょう。

 『学び合い』実践者の方は、子ども達に語っていることを、自らの問い直して欲しいと思います。それが出来ると、子どもに語る言葉に魂が宿ります。